<絶対無>は存在しないので、
全宇宙(時空4次元以降宇宙をも含むすべての存在)は永遠に存在し、変化し続けること。
私という存在の核である<私>という意識のある<私意識>も存在であるから、
<私意識>は永遠に存在し変化してゆく。
存在=全宇宙は無限を指向しているように思え、
全宇宙そのものは、目的や価値観をもって<ある結果>を目指しているわけでなない。
全宇宙はただ存在し、ただ変化している。
全宇宙自体に目的や価値指向性がなく何処へ向かっているのでもないなら、私達の生きる意味や目的を全宇宙に求めても無駄。
私の生きる意味・目的は自分が決めることとなる。
全宇宙自体に目的はなく価値観は内在していないので、全宇宙自体に判断基準はなく裁くこともない。
全宇宙は私がどんな人間であり、何を行っても評価しない。
私は自由な存在であり、自由に生きることができる。
という気付きを得ることが出来ました。
私達は社会に生きており、関わる人々からの評価や意見、モラルや法律に行動の影響や制約を受けます。
しかし、それらは人間的な影響・制約であって全宇宙自体からの影響・制約ではないということです。
全宇宙自体がある行為を禁止していれば、どんなに頑張っても行為することは不可能になるはずです。
現実には、社会的なタブーはあっても行為不能ではありませんね。
不可能だからではなく、やっちゃいけないとされるからタブーなわけです。
例えば殺人など、私達は絶対的に罪な行為であるように思いますが、全宇宙自体に目的はなく、価値観で判断しませんから全宇宙的には殺人という行為が行われただけで、罪と評価されることはありません。
勿論、社会的には罪であり悪です。
つまり、人を裁くのは人であり社会であって全宇宙ではなくなります。
私達は宇宙を創造した神を思い罪や神の裁きを恐れますが、どうもそれは無いようです。
<絶対無>への考察から、<絶対無>が存在せず、全宇宙は存在する他ないのなら神によって創造されなくても存在するからです。
「神は死んだ」のではなく「神はいなかった」のです。
全宇宙は創造されたのではなく<絶対無>があり得ないのでただ存在する他なかった。
神の創造と裁きは宗教的権威と統治にとっては有効な概念でしたし、現在でも人類への影響と支配力があります。
しかし、束縛されることなく自由に思考するにつれ、つまり、<私意識>の自由無限な本質が発揮されるにつれ、裁く神の存在が薄れてゆくでしょう。
これによってニヒリズムな無神論に陥るのではありません。
この気付きには、ニヒリズムにはない<私意識>の永遠性と無限性の本質がありました。
これはとても力強い気付きでニヒリズムとは真逆に働きます。
<私意識>は永遠に存在し、自由無限な本質を持っている。
自分で生きる意味と目標を決めてもいいし、決めなくてもいい。
私は自由に生きることができる。
失敗しても成功しても全宇宙的には同じこと。
永遠の快で存在できることが大切だ。
進化・愛・真・善・美・快といった価値や目的は私達自らが選び取るのです。
義務ではありませんから、目指さないのもOK。
グータラでも、ニートで働かないからといって身近な人々や社会からの風当たりや評価はあるでしょうが、あなたの本質の存在価値は変わりも決まりもしません。
この気付きはあなたの心を自由に軽やかにしてくれることでしょう。
しかし、自由であり恐れるべき神が存在しないとなれば、悪に生きることも自由であるのです。
人の批判や憎悪を恐れず、或いは悟られることなく、法律をすり抜ければいいのですから。
そのような恐ろしい選択に生きる人も、やがては憎悪と緊張に疲れ虚しさに囚われ、愛と共生に生きることに目覚めていくのだと思いますが、悪を求め意思する人間の存在は常にあることでしょう。
人間には善性がありますが、無限であり自由であるがゆえに悪性もあります。
宇宙は裁きも止めもしません。
ただ受け入れ存在するだけです。
しかし、愛や善は自らが選び取るものであれば、いっそうその輝きを増すのではありませんか?
私自身のことを言えば、私は自らの快を求め、自らの快の追求が人々を傷つけることなく、人々の幸福と共生することを願っています。
私はこのような思いを同じくするなあなたと繋がり、共に快に生きていきたいと願っています。